「蛾が進化した」と聞いても、にわかには信じがたいかもしれません。
しかし19世紀のイギリスで、人間が見ている目の前で、たった数十年のうちに蛾の体色が劇的に変わった現象が記録されています。
これが「工業暗化」です。
産業革命がもたらした大気汚染が生物の進化を強制した事例として、世界中の教科書に掲載されているこの現象から、人間活動と自然の関係を改めて考えてみましょう。
目次
工業暗化とは何か?── 蛾の色が変わった理由
工業暗化とは、19世紀後半からヨーロッパの工業都市が発展するにつれて、その付近に生息する蛾(ガ)に暗色の個体が増加した現象のことです。
代表的な例として挙げられるのが、オオシモフリエダシャク(学名:Biston betularia)という蛾です。
もともとこの蛾のほとんどは白っぽい体色をしており、木の幹に生える白い地衣類(コケの仲間)の上では見事な保護色となっていました。
鳥などの天敵に見つかりにくかったのです。
ところが産業革命による煤煙の排出によって地衣類が死滅し、樹皮が黒く汚れると状況は一変します。
白い個体ほど目立ってしまい、鳥に見つかって食べられやすくなりました。
一方、突然変異によって生まれた黒い個体は黒ずんだ樹皮の上でカモフラージュが効くため、生き残りやすくなります。
この「生存率の差」が何世代も積み重なり、黒い個体が急速に増加していったのです。
これが「自然選択」と呼ばれる進化のメカニズムです。
50年で個体の98%が黒くなった── 驚異的な進化の速さ
1848年にマンチェスターで最初の暗化型個体が記録された時点では、黒い個体はごくわずかでした。
しかし1895年までに、マンチェスターにおける暗化個体の頻度は98%にまで達したと記録されています。
わずか約50年で、個体群の色がほぼ完全に入れ替わってしまったのです。
これを「現実に目撃された、もっとも顕著な進化的変化」と評したのが、1950年代にケンブリッジ大学の研究者バーナード・ケトルウェルです。
彼は数百匹の明色型・暗色型のオオシモフリエダシャクに印をつけて放し、工業地帯と田園地帯でそれぞれ再捕獲率を比較しました。
その結果、汚染された工業地帯では黒い個体の再捕獲率が高く、汚染されていない田園地帯では白い個体の再捕獲率が高いことが示されました。
この現象が、鳥による捕食圧の差に起因する自然選択であることが、実験によって裏付けられたのです。
環境が回復したら、蛾も「戻った」
大気汚染の深刻さが社会問題となるきっかけのひとつが、1952年12月に起きたロンドン大スモッグです。
高気圧による無風状態が続く中、石炭の燃焼で生じた煤や二酸化硫黄が地表に停滞し、当初の政府報告では約4,000人の過剰死亡者とされましたが、その後の研究では最終的な死者数は約12,000人に上ったと推計されています。
この事件を契機として、イギリスでは1956年に大気浄化法(Clean Air Act)が制定され、石炭の使用が大幅に制限されました。
規制の効果が現れるにつれて大気汚染は改善され、それと並行するように1962年頃から現在にかけて、暗化型のオオシモフリエダシャクの頻度は着実に低下していきました。
汚染が引き起こした進化が、汚染の解消とともに逆方向に動いたのです。
この「進んでは戻った」という一連の変化は、生物が環境にいかに敏感に反応するかを示す説得力ある実例として、今も高く評価されています。
工業暗化が教えてくれること── 今も続く「強制進化」
工業暗化は過去の話ではありません。
人間活動が生物の進化を引き起こすという現象は、形を変えながら現代でも進行しています。
農薬の大量使用が薬剤耐性を持つ害虫を生み出し、抗生物質の過剰投与が耐性菌を増殖させる。
都市の光害が夜行性の昆虫の生態を変え、都市化による気温上昇が生物の繁殖時期をずらしていく。
これらはすべて、人間が意図せずして生物に「進化を強いている」事例です。
オオシモフリエダシャクの工業暗化は、そうした現象を人類が初めて観察・記録した出来事でした。
わずか数十年という短期間に起きた劇的な変化は、環境の変化が生物にとっていかに切実であるかを示しています。
そして「環境が回復すれば生物も回復できる」という事実もまた、この物語が教えてくれる大切なメッセージです。
私たちの活動が、地球上の無数の生き物の「生き方」を変え続けているという現実。
工業暗化の記録は、その問いを静かに、しかし確かに投げかけています。

